門前の小僧習わぬ経を読む

寺から聞こえてくる読経。それを毎日聞いていれば
習わなくても経を諳んじることができるようになる。
それを教訓に、私の将棋はいきなり大盤解説から入った。


大盤解説を聞くことは絶対に悪いことでは無い。それは分かる。
しかし先週あたりから、不本意な流れの中に居たために、あることに
気付いてしまった。


門前の小僧は経は諳んじるが、意味まで分かっているのだろうか?
本質が理解できていなければ経を読めると言えないではないか?


本日の将棋塾指導対局で、それを痛感した。


絶対的に勉強時間の足りない私は詰め将棋などは苦手だ。だから
いつも終盤はすごく苦労する。
今日の対局も、たぶん最後は5手詰めだった。本当に5手で詰むのか
長い時間かけて確認していた。


しかし先生は私の視線を見逃していなかったようだ。
私は遥か遠くで遊んでいる龍を何度も何度も引いてみたら?と考えていた。
素直に5手詰めしていれば良いものを…。
たぶん大盤解説なんかで見ているプロ棋士の手を感覚で覚えていたのだろう。


しかし龍を引いたところで、その先の手は私には分からない。
絶対的に勉強が足りないのだからプロの真似をしようにもできるはずがない。
そこで素直に5手詰めをしようとしたのだが…
「龍を引こうとしているでしょう」
見抜かれた。。


「いいでしょう。でもそれをやりたいなら手順が違う」と指摘された。
敢えて難しい寄せ方になってしまう。きっとその方が美しいのだが。


「これは受けになっていないけれど」と合駒を打たれた。
合駒に意味は無い(たぶん)。素直に取ってしまえば良いのだろう。が!
なぜか私は飛車(龍)角(馬)交換をしてしまった。


「それは飛車を取られるが、馬を取るのは正解。
 ただし、それでちゃんと寄せられるのか見えているのか?
 見えているなら馬を取ってもいい」


はい。ぶっちゃけ見えていませんでした。
ただなんとなく、ここは馬を取るんじゃないか… 習わぬ経を読むに同じ。


また長い時間かけて寄せを考える。寄せきれる自信が無い(涙)
しかし私には「馬を取る」という感覚以外、もう逃げ場が無い。


結局、馬の使い方は間違えたのだが、詰めろに入っていたので何とか
寄せきった。今日の先生とは初手合いだったのだが、無謀な生徒と
呆れただろう(涙)


意味も分かってないのに、プロの手を真似するほど恐ろしいことはない。
寄せはしたものの、今日ほど後味の悪い対局は無かった。ひどく凹んだ。
大盤解説もいいけど、ちゃんと基本も勉強しよう。
「習わぬ経を読」んでも全く利なし。